信濃白炭物語ができるまでありがとう著者の希望により、サイトへの掲載は終了しています。

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信濃白炭 炭師  原 伸介
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 もう二年近く前(1998年)のことになる。炭焼きに夢中で、本当にお金が無かった。ものすごく、無かった。そんなとき、大学時代の親友が結婚することになった。学生時代、一緒に散々「悪さ」した、悪友だった。何が何でも結婚式には駆けつけねばならない。私のようなやくざ者は、義理を欠いたらおしまいである。しかし、先立つものが無い。どうしても、ない。ないったら、ない。私は苦悩した。散々苦悩したあげく、ある日、名案が思いついた。私は自分のアイデアの素晴らしさに小躍りした。今思い返せば、そのアイデアは「素晴らしい」というより「小賢しい」「あざとい」といった表現の方がより適切であったといえる。私は上機嫌で、悪友の新郎にすぐさま電話した。
 「おい、結婚式ってやつには、『引き出物』ってのがつきものだよな。もう決まってんのか?なに、まだ?そうか、うむ。素晴らしい引き出物があるんだ。どこにも売ってないオリジナルだ。分かるか?そう、俺の炭だ。木酢液もある。どうだ。素晴らしいだろう。
自分の炭を親友の結婚式の引き出物に使ってもらい、その「あがり」で結婚式に出る金を稼ごうという、まさに「あこぎ」としか言いようのない作戦である。まるで、祝いと炭の物々交換である。戸惑う悪友に、私は得意のゴリ押しでたたみかけた。「な、いいアイデアだろ、な、な、な、そう思うだろ、な、それでいいよな、な、な…」私のただならぬ押しの強さに折れ、気の毒な新郎はとうとう首を縦に振った。私は受話器を手に、小さくガッツポーズした。
 翌日から、鼻歌まじりで引き出物用の炭と木酢液の準備を始めた。なにぶん見かけが地味なものなので、和紙を使ったりして小ぎれいな装飾を心掛けた。満足のいくものができた。ご飯を炊くときに炊飯器に入れたり、ポットに入れてお水をおいしくしたりする「炊飯・浄水用信濃白炭」と、お風呂用木酢液「森のしずく」のセットである。私は早速サンプルを新郎に送った。数日後、彼から電話があった。
 「内容はあれでオーケーなんだけど、式に来る連中は同級生がほとんどだから、炭のことも木酢のことも知らんだろう。だから、何かこう、分かりやすいノーガキをつけてくれよ。」
 もっともである。昭和47年生まれの私自身、自分が炭焼きを始めるまでは炭のことも、その使い方も、ほとんど何も知らなかった。式に来るのは、私と同世代の人間である。いきなり炭と木酢を渡されても、何がなんだか分からないだろう。ましてやそれを作っているのが新郎の友人であると言われても、「はあ?」といった感じだろう。無理からぬことである。確かにノーガキがいる。私は静かに燃えた。
 「これは、チャンスだ…」
 式に出るための御祝儀稼ぎに思いついた「引き出物大作戦」だったが、思わぬところで自分の仕事を世に知らしめる機会と結びついた。翌日からすぐに、作文に取りかかった。我ながら、もの凄い勢いで書きなぐった。まだ若かったから、とにかく勢いがあった。一気に書き上げた。タイトルは最後に考えた。『信濃白炭物語』と命名した。それは結婚式の当日、小ぎれいな引き出物と共に、来客の手に渡った。私は満足だった。
 これが『信濃白炭物語』ができるまでのいきさつである。しかし、最初に結婚式で配られたときにはまだ、B4用紙2枚に、ワープロで書いたものだった。その後、機会があって、《森のしずく》の代理店をしてくださっていた大阪の会社社長の長尾氏にその文章を見せたところ、面白いのですぐに小冊子にしましょうということになった。長尾氏自ら、文章の校正と製本を引き受けてくださり、素晴らしい小冊子ができあがった。長尾氏の話によると、冊子にするときに、製本用のホチキスが無かったので、トイレットペーパーを下に敷いて、普通のホチキスで製本してくださったのだという。それがどういう状況なのかよく分からなかったが、手作りの匂いが色濃く漂うその作り方に、私はひどく感動したのを覚えている。社長自らトイレットペーパーで…。泣けた。
 そして、題字と、象形文字のような表紙の絵は、松本市在住の画家、「春の うらら」さんに炭との物々交換で描いていただいた。これもまた、不思議な「縁」によるものだった。
 ある日突然、うららさんから電話があった。冬の寒い時期だった。「おーい、今、寒いから、火鉢で手を暖めながら絵を描いてるんだ。お前の炭、分けてくれないか。」「いいけど、でも、俺の炭、そのへんで売ってるやつより高いよ。だけど火持ちはいいから、夜寝る前に優しく灰をかけとけば、翌朝まで火がもつから、結局得だけどね。」「そうか、高いのか…」ちょっと渋るうららさんの声を聞いて、私の頭に、またアイデアが閃いた。「そうだ、じゃあ、うららさん、《森のしずく》のラベルのデザインしてよ。物々交換でいこう。」「それでいいのか」「うん。ぜひそうしてよ。」 自分の炭で暖められた手から描き出されるデザインを、自分の作った木酢液のラベルに使うなんぞ、オツではないか。早速、《森のしずく》のボトルと、自分の仕事を知ってもらうための『信濃白炭物語』を送った。数日後、うららさんから連絡があり、絵が送られて来た。「いやー、なかなか浮かばなくて、苦労したよ。」素敵なデザインだった。依頼した《森のしずく》の文字の他に、頼んでもいなかったのに『信濃白炭物語』の文字と、不思議な象形文字のような絵が同封されていた。その文字と絵を、『信濃 白炭物語』の表紙にあてがってみると、サイズがまさにぴったりだった。「表紙を新しくしよう!」一発で決めた。すぐに新しい表紙を印刷した。以前のワープロの文字に比べて、格段によくなった。大満足だった。ほんとうにありがとう、うららさん。
 私の人生はいつもこんな感じである。著しく事務的能力に欠ける私を、いつも周りの親切な方々がフォローしてくださる。私はさしずめ神輿の上で、はしゃいで踊る道化である。しかし、私が周りを楽しませ、笑ってもらうためには、その神輿をしっかりと支えてくださる方々が絶対に必要なのだ。私は逆立ちしてもその人たちにかなわない。絶対に頭が上がらない。神輿がなければ、道化は踊れないのだ。いつもいつも、本当にありがたいと思う。感謝でいっぱいになる。そのありがたさに、一人、部屋で声を上げて泣いたことも一度や二度ではなかった。どうしてこんなにどうしようもない男に、親切にして下さるのか。損得抜きで手を差し伸べてくださるのか。私には何もない。地位も名誉も金もない。根性も体力もない。あるのはただ、「やれば何でもできるんだ。」という「根拠のない自信」と、失敗を恐れぬ無鉄砲さだけである。いい歳こいて(といってもまだ28だが)「夢」という言葉に滅法弱い。女性にも弱い。酒もわりと好きである。何の話だか分からなくなってきたが、とにかく、私が生きていられるのは、間違いなく皆様の「おかげさま」なのだ 。だから、感謝の気持ちだけはいつでも絶対に忘れまいと思っている。そして、神輿に乗るからには、最高の踊りを見せて、周りの人に思いっきり楽しんでもらおうと思っている。それが支えてくださる方々への、自分ができる精一杯の恩返しだと思う。だから、これからも、全身全霊をかけて踊る。手抜きはしない。
 このIT革命の時代に、山にこもって炭を焼いていること自体、道化である。この文章だって、8年前に買ったワープロで書いている。インターネットとかE-メールとか、ダブルクリックとか、ぜんぜん分かんない。身近なひとに頼んで、ホームページとやらに、載せていただいている。ほんとうに、おんぶに抱っこである。また神輿に乗せていただいてしまった。ITなんていわれても、知らない。ETなら人差し指が長いのを知っている。ITといえば、「一人で山仕事してるんだから、何か事故でもあったときの為に、ケータイもってたほうがいいよ。」と周りの人は心配してくださるが、山は、もの凄く「圏外」である。大体、山で木の下敷きになったときに、ケータイのボタンなど、押せない。ハトでも飛ばしたほうがまだ当てになる。それ以前に、大自然の中で着信音なぞピーピーなった日には、ハトに申し訳が立たない。暗くなったら仕事終わりである。事故については、一人で炭焼きやると決めたときから、もう、腹はくくっている。人間、街を歩いていても、死ぬときゃ死ぬ。何が怖いって、人間が一番怖いではないか。「役割のあるうちには絶対死なない。」それが私の信条である。
 とまあ、つい最近まではそんな風に思ってた。「そんなふう」とは、ハトに申し訳が立つような、他人と隔絶した山の暮らしを良しとする考え方である。しかし、ミレニアムを迎えて、私はその考えを変えた。何故か。私に何が起きたのか。
 炭焼きを始めたころは、何から何まで一人でやっていた。誰の力も借りないことが誇りだった。とにかく、全てを自力でやることが「強さ」だと思っていた。しかし、4年間、一人で山にこもってやってみて、その考えが間違いだったことに気づかされた。『物語』にも書いたが、ぎりぎりのところでいつも自分を支えてくださる方が現れ、その方々の力があってこそ自分は炭焼きを続けられるのだということが身に沁みて分かった今、他者との関係の中でこそ、人は磨かれることを知った。だから、他者との関係を断って山にこもろうとしていたのは、実は自分の「弱さ」だったのだ。本当の強さとは、弱さや嫌らしさや汚らしさを含めて、自分をさらけ出せることだ。強くあらねばと思うあまり弱さを隠そうとすることこそが、根源的な弱さだ。私は逃げていたのだ。もう、逃げない。私は自分がどうしようもない人間であることを隠さない。私は人一倍弱くて、人の二倍くらい嫌らしい。そんな私でも、炭焼きに関しては足掛け五年、真剣にやってきた。そして皆様のお力をお借りして、どうにか形になった。誰も本気にしなかった夢を実現した。もう何も怖くない。今年(2000年)から、とにかく 、自分を外に出そうと決めた。娑婆の皆さん、どうぞよろしくお願いします。
 先にも書いた「道化」という言葉は、私を良く知る親しい女性がつけてくれた呼称である。的を得ていて、気に入っている。本当に道化だと思う。自分的には「炭焼き芸人」という肩書きもいいなと思ったりもする。とにかく、ちょっと変わった生き方をしているのだから、それを知ってもらうことで楽しんでもらってもいいじゃないかと思えるようになった。そんな最近の自分がちょっぴり好きだ。
 いままではかなり「カタクナ」だった。孤高を目指し、他人を寄せつけない雰囲気をもっていた。無口で厳しい「職人気質」に憧れて、無理してた。無理は体によくない。もう、やあめた。自分には、この仕事を他人に知ってもらうという役割と、それを支える伝えたいという衝動がある。ようやく機は熟した。またもや皆様のお力を借りて、神輿に乗せていただこうと思う。このホームページは、これからも成長を続けます。これからも、どうぞよろしくお願いします。
2000年9月11日 28歳の誕生日に自宅にて。原 伸介

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Web作成:N.KUBO:Last Update 2004.8.10.
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