土佐備長炭を訪ねて 著者の希望により、サイトへの掲載は終了しています。

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信濃白炭 炭師  原 伸介

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 私が「土佐備長炭」という名前を知ったのは今から3年ほど前(2000年現在)である。プロの炭焼きを目指して独立を果たし、自分の窯で焼き始めて間もないころだったと思う。納得のいく炭が焼けずに落胆と試行錯誤の連続の中、すがるような気持ちで「炭」と名のつく書物を買いあさった時期だった。そのとき書店で一冊の本と出会った。宮川敏彦著『土佐備長炭』(高知新聞社・刊)である。私は興奮し、夢中になってその本を読んだ。それは明らかに他の本と違っていた。それまで手にしてきた炭に関する書物は炭の効用や使い方、性質に関することしか取り上げていなかった。しかしその本は「炭」そのものよりも、炭を生み出す「炭焼く人」に一貫し焦点を当てて書かれていた。しかも炭焼きの玄人が読んでも十二分に勉強になるだけの詳細な資料も豊富だった。それは炭を焼く現場の人間である私にとって、嬉しい衝撃だった。私の心は躍った。「『土佐備長炭』をいつか必ず見に行きたい」それが私の夢になった。
 今年の夏、その3年越しの夢が叶った。私の住む長野県松本市から、実家のある神奈川県を経て東京湾からフェリーに乗り、翌日高知港に着いた。すぐに、『土佐備長炭』の著者である宮川敏彦氏とお会いし、詳細な炭窯の地図をいただいた。これは本当に有り難かった。そして翌日からすぐに、車に寝泊りしながらの、私の「土佐炭焼き修行」が始まった。
 自分で言うのも何だが、私の風貌はおよそ「炭焼き」らしくない。色も白いし、もう二十代後半になるのに、いかにも学生上がりといったやわな体裁である。窯を訪ねるたびに、最初は少し怪訝な顔をされる。「長野県から着ました、炭焼きの原です。」と自己紹介すると、どこの窯でも驚いた顔をされた。しかし、炭焼きと知るとすぐに、優しく親切に応対して下さった。中には自分のことを棚に上げて、「こんな仕事やるなんて、あんたも変わり者だ。」と笑った炭焼きさんもいた。土佐の人は皆とても気さくで明るくて、「ああ、南国に来たんだなあ。」としみじみ感じた。
 土佐備長炭の窯を訪ねてみて、もっとも強く衝撃を受けたのは、その窯の大きさである。とにかく「べらぼうに」でかい。出炭量にして私の窯の10倍以上である。尋常ではない。私は原木の伐採から搬出、一連の炭焼き作業まで全て一人で行っている。しかも窯は車の入れない山の中にある。いわば昔ながらの「山の炭窯」である。原始的である。それに引き換え、土佐備長窯はまるで「工場」だった。圧倒的である。この大きな窯を一年中回し続けることの厳しさは、炭焼きを生業としている私にさえ、想像しがたいものだった。
 私はかねてから、白炭焼き(備長炭も白炭の一種)ほど、きつい仕事はないと思ってきた。自分の仕事は厳しい仕事であると、自負してきた。しかし土佐備長炭の窯をこの目で見て、考えが変わった。上には上がいた。自分は井の中の蛙だった。この想像を絶する仕事をずっと続けてこられた土佐備長炭の炭焼き職人の、これまでの苦労と努力に、尊敬を遥かに通り越して、心底感動した。「頭の下がる思い」という言葉をこれほど現実的に感じたことはなかった。白炭焼きの仕事の厳しさは、経験したものにしか分からない。苦労や睡魔と格闘しながら、根気よく、粘り強く続けられる「精煉」(窯出し前の窯に少しずつ空気を送り込み、窯の温度を上げる作業)。火を噴く灼熱の窯に正対して、熱気にあおられながら長時間、丁寧に炭を出す窯出しの熱さと厳しさ。次の窯にくべる原木の準備に追われ、窯を回すのではなく窯に回される精神的な重圧。疲れきって眠っていても、窯の状態が気になって神経は眠れないという、炭からの呪縛。それなのに、どうして炭焼きを続けるのか。何が炭焼き職人を次の窯に駆り立てるのか。それもまた、経験したものにしか決して分からないのだ。私は自分がこ の大きな窯を回すことを想像しながら、一つ、大きく息を吐いた。やっぱり、凄いことだと思った。
 「窯の大きさは、少しでもたくさん炭を出したいという欲の大きさなんですよ。」ある女性の炭焼きさんが笑いながら話してくれた。私もつられて笑いながら、しかし心の中では別のことを思っていた。土佐備長炭の巨大な窯を前に、私はもう一度自分の原点に返ろうと思った。炭焼きを志したときの初心がよみがえった。「やっぱり自分は炭焼きが好きなんだ。この仕事を続けていくんだ。」この勇気をもらえたことが、土佐での何よりの収穫だった。短い滞在の中で多くのことを学ばせていただいたことを、心から感謝している。
 大きな窯は人間も大きくするのだろうか。土佐備長炭を生み出す炭焼きさんたちは、本当に素敵だった。その中に、私に炭をくれた炭焼きさんがいた。素晴らしい炭だった。
 「こんないい炭、ただでもらったらバチがあたりますよ。」私の言葉に、その炭焼きさんはすかさず切り替えした。「もらっても、バチはあたらん。でも、あんたが炭焼きやめたら、バチあたるでえ。」後継者はいないのだという。重くてありがたい言葉だった。身も心も引き締まる思いだった。今回学んだことは決して無駄にするまいと心に誓った。
 日本の炭焼き技術は間違いなく世界一である。その世界一の技術の一翼を担っているのが土佐備長炭である。しかし若い後継者は皆無に等しい。伝統の灯は、郷愁や感傷では守れない。炭が売れてこそ初めて炭焼きという仕事が成り立つのだ。だから、生意気覚悟で土佐の皆さんにお願いしたい。土佐備長炭を、誇りを持って地元で使っていただきたい。土佐の先人の、苦労と努力の結晶であるこの技術の灯を、その価値の尊さを、もう一度見直していただきたい。次の世代を担う若者に、地元を誇れる仕事と夢を与えていただきたい。
 もし縁あって次に土佐を訪れたときに、自分より若い炭焼き職人に会うことができたら、私は嬉しくて泣いてしまうだろう。そして言うだろう。「やめたら、バチあたるでえ。」
高知新聞掲載予定
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(C)原 伸介 2000-2004
Copyright S. Hara 2000-2004

信濃白炭物語表紙へ ありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとう

Web作成:N.KUBO:Last Update 2004.8.10.
Web作成に関しては、原著者原伸介氏の許諾を得て、N.KUBOが行なっています。

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