駆け出し炭師のひとりごと/自己紹介 著者の希望により、サイトへの掲載は終了しています。

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信濃白炭 炭師  原 伸介

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 長々とした説明を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。わたしへの質問の中で一番多いのは「どうして炭焼きを選んだの?」というものです。どうしてでしょうねえ…。ひとことでかっこよく言えば「窯出しのときのあの金色に魅せられたから」ということになりますが、もちろんそれだけではないです。私は「仕事」とは、「職業」や「労働」である前に「生き方」であると考えています。心の中に、矛盾や葛藤や迷いや言い訳を抱えることなく続けていけるような「仕事」=「生き方」を小さいころから求めていた気がします。ませガキで、本当に小さいころから「幸せとはなにか」とか「いかに生きるべきか」などとかわいくないことを考えていました。炭焼きはそんな自分にまさにぴったりの仕事でした。「これしかない」とまで思いました。また、環境的には、横浜生れ横須賀育ちの都会っ子でしたが、小さいころから山で遊ぶのが好きで(当時はまだ里山が少し残っていました)大人になっても自然の中で生きていたいなあとは思っていました。ですから、都会から脱出するようにして信州に来て、大学に入って、しかし学校がつまらなくて行かなくなって、卒業だけして、あと はさまざまな人との出会いや「縁」に恵まれて、導かれるようにして隣村で炭焼き修行始めたら夢中になっていました。そのうちに独立欲が出て、ひそかに体当たりで山を借りて、草刈りをして、道を作って、石を運んで、気がついたら自分の窯まで作って炭焼きをしていた、という感じです。ツルハシとスコップと竹箕だけで本当に夢中になって、ジャングルみたいだった山を開墾して、小屋まで建てちまって、無知と勢いとはすごいなと、我ながら「若気の至り」に呆れます。他人から咎められたら「ごめん。あの時はオレ、どうかしてたんだ」と言い訳するしかありません。でも、炭焼き修行はすごく大変だったけど、掛け値なしに楽しかった。やることなすこと全て初めてのことばかり。師匠や仲間のじいさんたちに散々迷惑かけながら、ナタの研ぎ方から鋸の目立てのしかたから、山仕事の基本を一から教わって、大学まで出て頭でっかちになって、理屈ばかりこいて半端なプライドだけ増長させていたくせに、現場では自分が何もできないことをつくづく思い知らされ恥ずかしくなり、尊大だったことを猛烈に反省しました。でもじいさんたちの、悠々と豪快に生きていた若かりし日の話や、かなり露 骨な色恋の話などを、藁で作った縄文小屋のような炭焼き小屋の囲炉裏を囲んで炭火焼の川魚を食い、酒を飲みながら聞かせてもらうとき、自分はなんて幸せなんだろう、と心底思いました。そして白炭焼き技術の奥深さを知るにつれ、その面白さにどんどん「はまって」いきました。こんなにすばらしく、貴重な伝統技術がなくなることは、日本にとどまらず、世界にとって大きな損失である、とまで誇大に思い込んでしまった私が、生計を無視して独立を決意するまでにそう長くはかかりませんでした。23歳のときでした。

 炭焼きは食えない仕事だから後継者がいないのです。じゃあどうすればよいか?答えは簡単です。後継者を目指す自分が食えるようにすればいいんです。でもそれがものすごく困難であることだけは容易に想像できました。しかしやるからにはプロを目指そうと決めていましたし、誰にもできないと思われることに挑戦するのが大好きで、「無理だ」といわれるほどに燃えるタイプなので、食えない炭焼きを自分の力で食えるようにしていこうと勝手に決めました。親を含め周りの人々には全く本気にされませんでした。炭を焼くだけでも充分大変なのですが、それを売るのはもっと大変です。若いので信用もありませんし、信州に親戚縁者もいません。へとへとに疲れた体で夜の塾のバイトをして生計を立てながら、休みのない炭焼き仕事の合間に時間を捻出し、白炭の宣伝や営業・販売・木酢液の商品化まで、一人で一次産業・二次産業・三次産業すべてやりました。10kg痩せました。汚い格好で焼鳥屋に自分の炭の営業に行き、冷たくあしらわれたこともありました。でも逆に「若いのに頑張るね」と励まし、炭を買ってくださった方もいました。もうだめかなと思ったときに、必ず救ってくださる方 が現れるようになりました。そのたびに「ああ、もう少し炭焼きを続けていいということだな、ありがたいな」と、感謝の気持ちでいっぱいになりました。生活はずっと苦しいままでしたが、理解ある方々のお陰で生きてこられました。

 そのようなわけで、今では炭焼きで食っていけるめどが立ち始めました。仕事の段取りもマシになり、窯の太鼓持ちとしてご機嫌を取るのにも長けてきました。少しだけですが職人としての誇りと自信も手に入れつつあります。何よりもそれが嬉しい。まだまだ棘の道が続くと思いますが、続けられる限りは続けていくつもりですし、なんだか続けていけそうな気がしています。でもだめだと思えばあっさりとやめちゃいます。この先どう転んだとしても、炭焼きに魅せられ、夢中になり、すべてをかけたこの二十代を、後で振り返ったときに決して後悔しない自信だけはあります。最高に充実した時間をすごせたことに感謝します。本当にいい仕事に巡り会えたと思っています。自分は幸せ者です。
 最近「窯が見たい」とか「窯出しを見せてくれ」とか「取材させてほしい」とか、挙句の果てに「弟子にしてくれ」といった依頼が増えています。申し訳ありませんがそれらは全てお断りしています。まだまだ人様に仕事や仕事場を見せられるような心的時間的余裕もありませんし、今はその時期ではないと思っています。しっかりと地に足をつけて、よい炭を焼くことだけに全神経を集中したいのです。時期が来たら喜んでお受けします。そのときまで待っていてください。意外とすぐにくるかもしれません。
 最後まで読んでくださりありがとうございました。
縁がありましたらどこかでお会いしましょう。
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原 伸介ありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとう

1972年 横浜生まれ
1995年 信州大学森林科学科卒業:大学卒業後1年間のプータロー生活を経て
1996年 より約一年間、松本市の隣の四賀村にて伊沢 衛氏に白炭製炭を師事
1997年 独立
1998年 「お前に焼いてもらわなくても中国人に焼かせりゃ1日200円だ」 と言った問屋にぶち切れ、営業、販売もはじめる。
1999年 東北(秋田、岩手)にて炭焼き修行
自分の窯を休ませる夏場、信州各地をはじめ、秋田・岩手・宮城・山梨・和歌山・高知・宮崎にて炭焼き修行。
各地の名人に技術と人生を学ぶ。名人たちの 「がんばって続けてくださいわしには後継者がいませんから」 の言葉に、炭焼き技術を後世に受け継ぐ決意を固める。
2000年 土佐(高知)にて炭焼き修行
2001年 日向にて柳田成美氏に師事
2003年 第20回新風舎出版賞 『ボクは炭焼き職人になった』がノンフィクション部門で優秀賞に入選 結果詳細 総評・選評
炭を焼きつつ2週間で『ボクは炭焼き職人になった』を書く。同作で新風舎出版賞ノンフィクション部門優秀賞を受賞。「夢の企画」プロジェクトで夢と出版費を集め、出版化を実現。
2004年 新風舎http://www.pub.co.jp/より、
2004年7月21日(水)に
原伸介著
『ボクは炭焼き職人になった−修羅場の修行編−』\1500-
    ISBN4-7974-4823-7 C0095 224ページ B6版 ソフトカバー
『ボクは炭焼き職人になった−怒涛の独立編−』¥1500-
    ISBN4-7974-4824-5 C009S 224ページ B6版 ソフトカバー
を出版。(販売後3ヶ月で3000部完売/増刷)
2005年 信濃白炭と並行して日本刀錬用の赤松黒炭の製炭を開始。
現在、長野県松本市の山中で、専業で炭を焼く。つらかった炭焼きが楽しくなりはじめ、体重5kg増える。
現 在 専業で信濃白炭を焼く。

(C)原 伸介 1998-2005
Copyright S.Hara 1998-2005

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Web作成:N.KUBO:Last Update 2005.8.10.
Web作成に関しては、原著者原伸介氏の許諾を得て、N.KUBOが行なっています。

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